Give me a break.


俺は毎朝、家を出る2時間前に起床する。
ノートパソコンを起動してメールのチェックをしてから、足を引きずるようにして、新聞を郵便受けから取ってくる。
学生の頃は、朝食にブラックコーヒーでパンを食うのが好きだったが、今はもうできなくなった。
胃に悪いコーヒーの代わりに鍋で牛乳を温めながら、スケジュール帳に目を落とす。
伏せたまぶたは、寝起きだとなおさら重たく感じた。

・10時 定例会議
・12時 研修の様子確認
・13時 新人教育5日目 来栖に引き継ぎ業務
・14時 UACインターナショナル
・17時 企画書提出、稟議提出
・18時 日報提出、始末書提出
・他   書類の整理、雑用、発注、誕生日

「……」

誕生日。
その言葉を見ても、いまさら特に何も思わなかった。
それとも、わざわざ自分で予定に書き込んだくらいなのだから、一応は記念日だとでも認識しているのだろうか。
……分からない。思い出せない。そもそもこの予定はいつ書き込んだものだったか。
仕事だけが詰め込まれた俺の人生。消費されていく時間。失われていく若さ。
疲れた薄い字で記された単語の上を、乾いた視線がすべっていく。
成人してからはほとんど毎年、誕生日を職場で過ごしてきた。
恋人がいた期間もあったが、長続きしなかった理由を全て、仕事の多忙さのせいにはするつもりはない。
俺の乾いた人間性の問題だったのだろう。
立ち上がって、膜の張った牛乳の小鍋をようやく火から下ろした。
毎日やっているくせに、今日もまた失敗した。牛乳を温めるってのはなんて難しい作業なのか。
ヘリに湯葉みたいなのがこびりついて真っ黒になった、きったねえ小鍋をぼうっと見下ろす。


俺の頭の裏に掛かっているカレンダーの、2月2日の周辺には―――
プレゼントを持った手を自分の背中に隠し、笑顔だったり、はにかんだりしなから俺に声をかけてから。
数秒後に顔をこわばらせる、もう思い出せない優しい人たちの、ぼんやりとした印象だけが残っている。

シンクに置いた鍋から立ち上る湯気の向こう。
笑っている友人の顔がぼやけている。



「今日、誕生日なんだ」
「え?」

紺野と約束をしていたのはたまたまだった。
1週間ほど前に、それほど過密なスケジュールではない日を選んで、俺がこの日を指定したのだった。
元々の予定は、食事をして解散。それだけだった。
仕事が終わった後に親しい友人と合流して遊ぶ―――その程度のものだった。
決して、下心があったわけではなかったのに。

「今日?」
「ああ」

俺は何故だか言ってしまったのだった。
隠しておこうと決めていたわけじゃない。
毎年、大体この時間は仕事中だから、誕生日のことを思い出さないだけなのだ。
なのに今日は、思い出してしまったのだ。
お前が俺の大事な友人だから。
待ち合わせをしてた夜の公園で、屋台の並びのベンチに座って、俺の隣に座っていたら。
笑ってるお前の横顔を見ていたら、言っておいた方がいいだろうかという迷いが生まれただけなんだ。
紺野がこうして、食いかけのたこ焼きを口に運びかけたまま硬直するのを、期待してたわけじゃない。

「おま、なんでそういうこと早く言わないの!? 俺、たこ焼き食っちゃってんじゃん!」
「あ……、ああ。いや、いいんじゃないか、それは」
「よくねえよ! なんで誕生日の人差し置いて俺ひとりで先に食ってんだよ!」
「いや……疲れて腹が減ってたようだったし」
「分かった」

紺野は神妙な顔で、残り3個になったたこ焼きのフタをそっと閉めた。

「今から家、行っていい? メシ作る」
「さらに食うのか」
「むしろちょっと食ったら余計に腹減ったね。なんか食いてえものとかないの―――いやいい。言うな」

サッと立てられた手のひらに遮られて、作ってもらえるなら何でも、と言いかけた俺の言葉は行き場を失う。

「こういうのは主役は何も決めなくていいもんだよな。よし、さあ行くぞ」
「どこへ」
「近くで食材売ってるとこ。……ふっふ、お前の家行くのなにげに初めてだよなあ」
「しかし…手間じゃないか? こんな時間から、わざわざ食事を作るのは」
「…お前、そういうこと言ってるから胃悪くすんだよ。どうせ牛丼とかカップ麺とか弁当ばっか食ってるか、もういっそ夜だったらなんも食わねえで寝ちまえってやってんだろ」
「……」



目を逸らした俺の答えを汲んだらしき紺野が作ってくれたのは湯豆腐だった。それから出来合いの刺身と缶の酒。
俺も金を出すと言ったら、ものすごい頑固さで拒否された。
うちには卓上コンロなんてものは存在しないので、ごった煮状態の鍋をそのままテーブルに置いてもらった。
鍋敷きもないので、溜まった新聞を重ねて代わりとした。小皿もないし、めんつゆもないし、箸も一膳しか―――

「お前んち、ものなさすぎない? あらかじめ無いモン教えといてもらってマジて助かった。あっぶねえ」
「あまり自炊をする習慣がなくてな…」
「分かるけども。つうか、その調子で誕生日のことも言ってくれりゃあ良かったのに」
「ああ……すまん」

それ以上、言葉が続かなかった。
紺野は俺をちらりと見やりはしたが、それには触れず、乾杯をしようと缶の酒をズイと突き出してくる。
グラスの音には程遠い、無骨な音の乾杯が、耳の奥にいつまでも残るようだった。

「おめでとう」

湯気の向こう、笑っている友人の顔がぼやけている。

ありがとう、と言った自分の口が震えたのが分かった。
おかしいな。この日は毎年仕事で、そうであることに疑問を感じることもなかったはずなのに。
嬉しいのか照れ臭いのか、困惑しているのか。
カーテンの隙間から、鍋の熱で窓ガラスが曇っていた。
包み込まれるような温かさに、現実感のない心地のまま、俺は誘われるように鍋へと―――

「聞いていい?」

伸ばした箸を、ガチン、と箸で捕まえられた。

「なんで誕生日だって教えてくんなかったの」
「…………忘れていて」

俺が今、動けないのは。
今までないがしろにしてきた人たちや、自分自身への、謝罪の気持ちなのかもしれなかった。
俺が今、恐れているのは。
カレンダーに憑りついたあの顔が、もうひとつ増えることに違いなかった。
紺野は、そっか、と穏やかに呟きはしたが、俺を解放してくれる様子はなかった。

「胃、痛くなるほど、仕事忙しいんだもんなあ」
「……言い訳に過ぎないとは」
「そんなこと言ってねえよ」

呪縛が解けたように、利き腕が軽くなる。
顔を上げると、紺野が少し身を乗り出していた。

「来年は教えて。仕事が何時に終わるのか」

俺は多分、頷いたと思う。

「あとプレゼント、なに欲しい」

そう言った紺野は、ハッと気づいた顔をして、首を横に振った。
これも主役が決めることじゃねえよな、と言いながら。

「…鍋をふたつ」
「鍋?」
「……、土鍋と、小さいのを」

お前と囲む用と、牛乳を温めるようなやつ。
湯気の向こう、笑っている―――大事な友人の顔が、ぼやけている。





END.






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